kの日記

人生の感想など

2024年08月24日土曜日 インサイド・ヘッド2感動した

2:00就寝、10時起床(うろおぼえ)。気分最高。何かと愉快な気持ち。
朝。フルグラ
昼。サラダとカレーと羊羹
夜。ナッシュの水餃子
間食。バター醤油ポップコーン、ゴーヤチップス

 

寝不足! 祖父から電話が来た。「東京電力 電気料金のお支払いのお願い」というメールがきたとのことで、調べてくれと。 聞くからに怪しいな〜という感じがしたが、何か即答を遠慮する心があり「それは詐欺だね」とすぐに言うことができず、調べてから返事をすることにしてしまった。調べて、やっぱり詐欺で、それを伝えたけど、祖父はメールのリンクを踏んでしまったらしく……。謎の遠慮をしなければ防げたはずのインシデントで、私は落ち込みました。今度こういうことがあったら「詐欺だね」って即答しよ。「詐欺だから無視して大丈夫!」ってすぐに言お。だって本当の請求だったらどうせ請求書が届きますもん、メールで知らせるとか嘘すぎる。

このツイートを見て、 「謝罪を受けたらことを終わりにしてやる」という儀式(?)は社会的に意義のあるものなのかもと思いました。最近、「謝られたってゆるしてやる義理なんかない」みたいなツイートがTwitterでよく伸びているなあと感じていて、まあその意見には私もおおむね同意、というか、被害者側が「ゆるすことを強要された」と感じるのもまあ、そうだよなあと思うし、そうと努力したり決意したりしても思うままにゆるせるものではないよなあと、思う派なのですが、それでも、謝罪をすることで事が終わりにできるという形式を有効なものとしておくことが、巡り巡って社会のために、また自分のためにもいいのかもしれないな、ともこのtweetを見て思った。謝ったってゆるされないならいけるところまで行ってしまう、だけど謝ったらゆるされるのなら謝って踏みとどまれることもあるのかもしれない。まあフリーライドして「なにしたってゆるされるからいいかー」みたいな社会的によろしくない考え方をする人ももちろん出てきて、それに傷つく人も出るかとは思うけど、「謝ったらゆるされる」という形式、儀式、をその社会の構成メンバーの大半が信じられている、という状態は、よいことなんじゃないかなという気がしました。

 

また夫の実家でめちゃうまいご飯をご馳走になってしまった、いつもありがとうございます!!

インサイド・ヘッド2を観に行った。感動した。すごく優しい映画だと思った。この映画、情操教育にいいのではないか?教育の一環としてこの映画を見る機会を設けるべきではないかとさえ思った。感動〜。以下ネタバレあり感想。感情たちはライリーを幸せにしたいと思ってる。シンパイだって必要だけど、シンパイが暴走すると自分はダメだっていう間違った自己像を強固に保持してしまうことになる。人間は多面的で、それでいいんだってこと。間違いながらでも進める。
 最後シンパイが「ライリー、大好き」っていうところ、すごくグッときた。自分(の感情)が自分を大好きっていうことに尊さを感じた。本来そうだったし、それを保持して、自分は自分の味方だということを明確にして生きていく、それが自分を愛するように人を愛しなさいってことなんじゃないかと思う。
 聖書に「与えよ、さすれば与えられん」って言葉があって、それもまあそうなんだけど、自分を救おうとして他人を救おうとすることの危険性は昨今よくよく指摘されていることでもありまして、私は、まあその「与えよ、さすれば与えられん」が間違ってるっていいたいわけじゃないけど誤解を招く表現だなと思っていて、枯れた泉から搾り出した血を与えるような与え方ではなくて、愛に押し出されて、尽きることない泉が内から湧く、その水で、自分という井戸がまず満たされて、それを他人にも汲ませてやる、そういうあり方が健全だし、破綻しなくて済む唯一の道なんじゃないですかと、私は思うわけなので、自分がまず自分を大好きになる、それって必須だしすごく健全だし、みんながもしそうあれたら、犯罪とかも激減すると思うし、平和が実現していけると思ってて、だから自分で自分を大好きになること、愛することって、直接、他人を愛することにつながってると思うし、神様も人間がそうやって愛に生きてくれたらと思ってるんじゃないか?知らないけど…。と、思った。インサイド・ヘッド2、マジでいい映画だった。冒険シーンもイカすし。キャラどれもそれぞれ可愛いし。