2024年3月20日水曜日 推しのエッセイを借りてはしゃぐ

 推しのエッセイが図書館に入っていたので借りたらまだそんなに汚れてなくて嬉しかったけど、これって喜んじゃいけないことなのかもという葛藤もあって、なんだか詩みたいでよかったです。エッセイが思ったよりも太くて、想像の倍くらいありました。紐のしおりもついていて、エッセイに紐のしおりがついてることあるんだ、と思いました。普段ほとんどエッセイを読まないので新鮮です。エッセイって今まであまり興味がなかったけど推しのエッセイなら読めるんだなと思いました。

 推しのエッセイ読むのつらいですね。なんでだろう。エモすぎ?あるいはそもそもちょっと今活字が受け付けないのかもしれません。きーっ、エモすぎる。でも私はそういう、本当の、その人の感性が反映された文章をこそ、確かに、読みたかったんですよ。読みたかったはずなんだ。読みたかったはずなのに!どうしてそれがかなった今うろたえて、読んでは止め読んでは止めしてるんでしょうね!ああ!ままならなくて嫌になっちゃう!最高~って思いながら五周くらい読めばいいのに!もしかすると「この人にはこの人の自我があって私とは別の人間である」という至極当然のことが私の中にその人の像を作って投影に投影を重ねてしまった後ではノイズに感じるのでしょうか?その人を理解できたと思う気持ちよさが病みつきになって、もっと理解したくて情報を飽くなき探求心で摂取して、ひとたびその人の虚像を胸に抱いた瞬間から情報がノイズになるのでしょうか?なんか「推し、燃ゆ」を思い出しました。ここからちょっと「推し燃ゆ」のネタバレ?あります。「推し、燃ゆ」めちゃくちゃ好きです。私は一人称の小説が好き。一人称だったっけ「推し、燃ゆ」?ちょっと定かでないんですけど。疾走感がいいですよね。推しにはどうしても自分を投影してしまうから、だから、急に引退、しかも引退の理由が「自分の人生を生きるため」みたいな、自分を投影する余地のかけらもない理由だったりするとめちゃくちゃショックだろうなって、思います。今日も推しが生きてて嬉しいけど、推しが本当に「生きている」のはつらい。だって推しは本当は自分のものでもなんでもなくて、推しにとって自分なんていないも同然で、そういう非対称性をファンはとてつもない妄想で覆うことでなんとか今日も生きてるのに。推しが燃えた時に自分が燃えて死んだ方がよかったのにって思うんですよねファンは。推しが「死ぬ」くらいなら自分が死にたかったのに、それなのに生きてる自分がいて、生き続けていく自分がいて、そういうもの悲しさというか、現実ってつらいねって感じが最後に綿棒を投げさせるシーンとよくマッチしてて好きだなって思います。綿棒を投げる!エモすぎる。綿棒を!アボカドを投げるのもいいけど綿棒もすごい。

 推しのエッセイを読んでいると共感するところもあるけれど普通にこの人は私じゃないので私の考えもしないことを考えたりしていて、あ、私じゃないんだ!ってなります。他者が私であるなんてありえないんですけど、でも言語化するなら「私であってくれよ!」という願望が強くあります。把握したい。私とつながっていてほしい。でもまあ私がそんなに好きなれる存在が私以外に存在しているというのもありがたいことなのかもしれません。危ない、自分のこと好きでいられないと容易に好きな他人を自分だと思い込み始めるから気を付けないといけないなと思います。私は私で素晴らしい存在だということを絶えず言い聞かせていかなければいけません。

 kentz1さん好きだったけど2020年でTwitterの発信が止まっていて「置いていかないでよ!」と思ったけれど改めて考えてみると他人は誰も私と一緒には死ねないんだったなと思いました。私と一緒に死ねるのは私だけ。

 今日はヤフーニュースでひろゆきさんが「インドに行ったくらいで人生が180度変わったとか言ってるのは薄っぺらい(要約)」と言っていた、というニュースを見て(このニュースもどうなんだという感じはしますが。)、人からだせーって言われるの嫌だよなと思ったけど、考え方次第では「人からだせーって言われることもあるけど、それはそれでいいんだ。それでも、私は、そういう私でいいんだ」って考えられるのかもしれないなとぼんやりと思いました。インドで180度考えが変わってもいいんだ。それをダサいって思う人がいたとしても、みたいな。できればできるだけ多くの人からかっこいいと思われたいし、すごい人だと思われたいし、この人とお近づきになりたいと思われたい。たしかにそれはそうだけど、その願いがかなわず思わぬ嘲笑を受けても、「ああ、そう思う人もいるんだ。そりゃ、いるよな」って受け止めて忘れられるくらいの精神状態を、考え方によっては保持できるのではないか、と思ったんです。実際にできるかどうかは知らないけど……。

 今日はろくな昼ご飯を食べずに活動した代償か夜ごはんを食べても空腹感がぬぐえなかったので追加で無印のからくないグリーンカレーを食べました。とてもおいしかったです。いちばん好きなカレーです。でも鶏肉はもう少しパサパサじゃあないといいなと思います。

 三時間くらい外出しただけでしっかり目がかゆくなって鼻水が出て、花粉がてきめんって感じです。くうう、つらい。薬が効きますように。

 人生で経験したくないと思うのは「訴えられること」です。そう考えると裁判の傍聴って裁判当事者とくに被告人にとっては生き恥晒していることになってつらいんじゃないだろうか?傍聴なんてしちゃって悪いことしたかな。祈っとこう。受刑者の方に心の平安がありますように。

 妄想を文章に起こすときに設定を思いついて書き並べてもその設定たちを繋げて行くのがとにかく難しいから設定を箇条書きで書いたりするのは、少なくとも短い妄想の場合かつ今の私の能力的には、よくないなと思いました。箇条書きはよくないです。設定が浮かんだ時点でなんでもいいからそれを読めるくらいの文章に変換しておかないと、箇条書きにしたものをあとで文章に直すのは苦痛が過ぎるけれど文章にしておけば奇跡的につながったりするかもしれないのです。

 人力音MADいいなー。サンプリングの都合上?、好きに歌い上げさせれないから淡々と歌わせられていて、そこがいい!生身の人間にはできない淡々さだと思います。ボーカロイドって、淡々と歌ってるのが味だったのかしら。そうかもしれないですねえ、知らなかった。

 推しのエッセイを読んだのでそのエッセイからの無意識パクリを今後繰り出してしまうかもしれないと危惧しています。まるで私がずっと持ってた持論みたいに……。でも本当に悪意はないんです。悪意がないからたちが悪いという説もありますが。私はパクリは嫌いですから、自分ではパクってるつもりはないんです。でも、真似てることがあるんです、無意識に……模倣してしまっていることがある、自分ではそれに気が付かないんです。恐ろしい。好きだなーと思った表現を、「自分の引き出し」に閉まってしまう、気がする。なんかパッと思い浮かんだその表現、実は推しのエッセイからパクってないですか!?と、自問することはできない……自分では本気でわからなくて、あとで「えっこの表現エッセイからのパクリだったの!?」って自分で気づいて驚愕するんだろうな。

 推しのエッセイを読んでいると共感できるところもあれば考えの違うところもあるなと感じるのですが、私には推しの考えがわかるのに、推しには私にもわかる考えや感覚が分からないこともあるというのが不思議です(そしてこのことは常識的に考えてなんの不思議でもないらしいことは私も知っているのです)。だって私に推しの考えがわかるなら、推しのほうだって私のわかる感覚や考えくらいわかってていいじゃないですか?ひょっとしてもしかして本当は「わかりたくない」だけなんじゃないですか?と思いました。その考えは「わからない」んだというポジションを取りたいだけじゃないか?と。この言い方だと「おまえポジショントークしてるだろ」という糾弾みたいに聞こえますけどそうじゃなくて、単純に、本当はもう少し考えればわかるのに、別にわかりたくもないからわからないでいようとしているだけなんじゃないかと思ったという話です。でもまあそれも広義の「わからない」なのかもしれませんね。「べつにわかりたくもない」って「わからない」ってことなのかも。もしかして、深読みっていうか逆張りして考えると、分かってるのは自分の方でおまえらはわかってないけど、おまえらのわかる言葉で言うと「わかってない」のは自分のほうで「わかってる」のはおまえらですよっていう、逆張りの媚びなのか?ありえる。いやそんな複雑じゃないか。こういうのを考えてると楽しいですね。なんかずっと読んでたらやっぱり推し、この概念を体感として「知ってる」はずだよ、と思いました。知らないふりしてる。なんでだろう。ああ、強度の問題か。充分それは「わかってる」と言っていいレベルだと私には感じられるけど、推しはたぶん「その先」があると思っていて、自分はその域には達していないから「わからない」と言っているんだと思いました。引いてるのかもな。「分からない」じゃなくて「ワカラナイ……」なのかもしれない。

 推しのエッセイと最近読んだ芸人さんの本で太宰治人間失格の同じ個所が引用されていてセレンディピティを感じました。太宰いいですよね~。どこかで読んだ、太宰治は自分の作品をなんかの賞の審査員だかにもうめちゃくちゃなくらい推しまくってたっていうエピソードが好きです。うろ覚えですみません。なんか手紙とか出しまくったんだったかな、自分の作品に賞をくれ~!!みたいな。そのがむしゃらさが意外で、いや可愛げありすぎかよって思いました。

 なんで推しの名前って出したくないんだろう。神と一緒だからかな。それだわ。それではないけど。

 もっと曝け出しあいたいな本当は。お世辞とか挨拶とか舘前とか、そういうのも別にあってもいいけど、本音が足りないじゃないですか?私たち。

 推しって傷つけたいよなー。その点、「推し、燃ゆ」の主人公は偉いなあと思ったけどそういえばストーカーしてましたかね、彼女。アウトかー。いやでも彼女の場合は傷つけたいという能動的な働きかけではなくて、飲み込み切れない現実と向き合うためにひねり出した一手って感じもしたからちょっと違うかもですが、それでも加害しちゃってはいるので、まあ残念なような、当然なような。自分を傷つけてみたいのと同じような心の動きが関係してるんでしょうか。推しに限らず他人のことは常に傷つけてはみたいのかもしれない。自分に行使できる力があると知るのはとんでもなく気持ちいいことですからね。原初の喜び。