2023年12月29日の日記

今日は15時に起きました。昨日は午前4時ごろ寝たので11時間寝たようです。毎日の睡眠時刻が不規則だからか、まだ眠い感じがします。

きのうの夜に夫がヨシュア記を読んでいて「ルベン人、ガド人、マナセの半部族」に関する部分でちょっとわからないことがあるとのことだったので検索してみたところ、

聖書の探求(124b) 民数記32章 ヨルダン川の東に定住した、ルベン族、ガド族、マナセの半部族 | まなべあきらの聖書メッセージ

というページが上位にヒットして、見てみたら内容がわかりやすいし文字が読みやすくて素敵だったのでとてもよかったです。とてもよかったので他の記事もいくつか読んでいたらなんだか信仰が燃えてきたのもあって、今日はちょっと張り切ってます。どのページかわからないけど、「それが聖霊の働きであるなら、何においてもまずあふれんばかりの感謝があるはずだ。感謝がないならそれは世や肉に属する行動・考えなので、注意しなければならない」みたいな感じの(超うろおぼえ)記述がどこかにあって、「なるほど、感謝か……」となりました。

それで思ったのは、死後検体のことです。私は自分が死んだら検体(大学病院とかに「好きに使ってください」と死体を差し出すこと(と私は理解している))をしたいなーと思うけれど、親族は反対するかもしれないなと思って、どうしようかなーと逡巡しているのですが、私がどうして検体をしたいのかを改めて考えてみると、「死んだ後の体がもったいない」「死んだら痛みも苦しみも自分は感じないのだから、自分の死体が勝手に誰かの役に立つならお得な感じがする」という考えを私は持っているみたいです。私は「人や世界や社会の役に立ちたい」という思いが強いのですが、生活しながらそれを達成するとなると面倒なことも多いので、せめて自分が死んだあと、自分が苦労しないことが確定している「死後検体」という形で役立ちポイント的なものを稼ぎたいのです。でも、そこに感謝があるかというとそうでもない。むしろ「もっと役に立たなきゃ」というような焦燥感があり、また、怒りさえあるように思います。「なんでみんな自分が死んだら死体をただ焼いちゃうんだろう。もったいない。死体だってきっと使えるのに。誰かが助かるのに。そうやってみんなが助け合ってくれれば私は人を助けなくて済むのに」という!私も書いていて気付いたけれどそうなんです。怒りがある。私は人を助けたりしたくないんです。人を助けたいけど、人を助けたりしたくない。人の役に立ちたいのも本当だけど、人の役になんか立ちたくないという気持ちも確かにある。今私が検体に関して抱く心は「感謝」ではないなと思いました。感謝がないなら、やめておいたほうがいいのかも。そう思いました。

 

近所のスーパーは年始営業を無しするみたいです。でも年末は通常営業らしくて意外でした。31日も休みにするのかなと思ったけど、年始だけみたいです。私は従業員も年末年始くらいは休んだ方がいいのではないかという考えなので、年末年始にお店が閉まることに賛成だけど、だけど、休んでるあいだに商品の消費期限がどんどん迫ってきてしまっていっぱい廃棄が出てしまってお店は大変じゃないのかなと不思議です。あと、年末年始分の給料が出なくて嫌だなと思う従業員もいたりするのかなとちょっと思います。でも給料については最近はタイミーという隙間時間で働ける仕事を紹介するサービスもあるし、それほど問題ではないのかな…?でも、仕事のないような過疎地域だとタイミーなんかは使えないかもしれないですね…。まあ考えればいろいろな面は出てくるけれど、私は今のところ年末年始休業に賛成です。