2024年3月9日の日記 夜更かし・飲酒・死

 今日は朝の11時に寝て14時過ぎに起きました。ポケモンスリープの睡眠計測は忘れてしまいました。最近は午前4時に寝ることが多いのですが、妄想を文章にしていたら朝になっていました。本当はもっと寝ていたかったのですが15時半から歯医者で定期検診を受ける予定があったので無理やり起きました。そのわりには一日中ずっと元気でした。逆に夜更かしのダメージが私の脳の落ち込み回路をマヒさせていたのかもしれません。いつになく饒舌で、いつになく高笑いした一日でした。

 今日は晩酌で日本酒を飲みました。2時間くらいはすごくいい気分だったのですが酔いが醒めてきてしまって悲しいです。死んだ『ずっと酔ってていちばん楽しいときの感覚でいられる天国』に行けたらいいのになと思いました。

 今は無職で家事も全くしていないので大体いつもゲームか読書かYouTube閲覧かpixiv閲覧かTwitter(X)閲覧をしています。全部消費者側というかROM専なのでたまに見るものがなくなってしまって暇つぶしにLINEニュースを見たりもします。ニュースサイトって記事での取り上げ方が恣意的な感じがするので苦手に感じることも多いのですが暇の苦しみには抗えずについ見てしまいます。昨夜自分の妄想を文章に起こしていたら数千字書くのに5時間以上かかっていい暇つぶしになったので、たまには生産者側に回るのもいいんだなと思いました。自分が書いたりなんだりしたものを自分が楽しく消費できる、いわゆる自家発電の状態になれれば、消費するものがなくなってしまってむなしい時間を過ごす必要がなくなるし、何より生産している最中の没頭はいろいろな苦しみを忘れられていいと思います。

 他人の死の知らせの話。鳥山明先生とちびまる子ちゃんの声優をされていたTARAKOさんが亡くなったということでネットがざわざわしていました。どちらも60代で、日本の平均寿命からするとお若いです。それで、もし今自分が推しているタレントさんが亡くなったらすごくショックで嫌だろうなというようなことを考えました。でもそのショックさって、『没頭できる暇つぶしがなくなった絶望』に過ぎないのかもしれない、と思いました。でももしそうなら、その追悼ってすごく俗で、人の死って重大なもののはずなのにそれに対して私が抱く感情はエゴまみれのそんなものなのかよ!?という受け入れがたさがあります。私は人の死を悼むということがよくわからなくて、それがコンプレックスになっています。それは私にとって死が怖すぎるせいかもしれないです。死が怖すぎるから死に対して一般的な態度が取れないのかもしれません。社会から浮くのは怖いので、できれば私も理想的な他人の死の悼みかたをしたいです。

 私も人が死んだら泣くとは思うのですが、それはたぶん自分がその人をもっと愛したらよかったのにみたいな懺悔にもとづく涙だろうなと思います。それでいいのか?(いいえ、それではいけませんよね)と思っているのですが、もしかしてそれでもいいのか? 懺悔で泣いてりゃいいのか? 自分の無関心が、無慈悲が、その人を愛せたかもしれない可能性をつぶし続けたこの自分のどうしようもなさが苦しくて泣いていれば、それはそれでいいのか? 私がよくわからないというかなんか腑に落ちないなと思っているのは、死者を悼むって言いながら結局泣いてる理由はぜんぶ自分じゃん(自分がその人をもっと愛せたのに愛せなかった後悔、自分がその人を通してはもう喜びを得られないことの絶望)ということです。それなら別に他人が死んだからってそれを良い機会みたいにして泣くのは変じゃん、と思います。だっていつだって悔い改めるべきなのに悔い改めなかったのは自分なんだから、それで泣いたって死者を悼むことにはならなくない? 死者のために泣くならいつか死者になるすべての生者たちをもっと愛したらいいんじゃないですか、と思います。うーん、ああ、でも、できればその人に永遠に生きてほしいと願う愛が、それでも定められた死を目の当たりにして砕け散るときに人の心は泣くのか。無理だと頭でわかっていても心が認めない願いが、やっぱりかなえられなかったことを突き付けられたときに人は泣くのか。ねえ、どうして人は全員絶対必ず死ぬってのにこんなにも死に対して脆弱なんでしょうか?! もっと死を克服してたっていいだろさすがに。

 私は人間が必ず死ぬということをまったく忘れているような態度で日々を生きているのを愚かだと思う。いつもは忘れている死を、人の死によって突き付けられて動揺する人々を愚かだと思う。「いや、知ってたことじゃん、一人残らずみんな死ぬんじゃん」と思う。けど、実は、ふだんは死を忘れて生きているその態度こそ、強さだったりするんだろうか。したたかさ、だったりするんだろうか。それで、その強さってのは、他人の死に揺らぐことで、何かのバランスを取っているものなのか。それは愚かなことではなくて健全なことなのか。私はいったいどうしてこんなに、人が人の死を悼んでいることにムカつくんだろう。だってそんなことある? どういう感情? いいじゃない。人が死んだら泣く人もいる。私がそのどっちだってかまわないんだ。人の死が悲しくなかったって、だからなんだっていうんだ。人の心がなかったらなんだっていうんだ。そういう人もいる。現状、人への弔意の有無でつるし上げられる恐れはあんまりない。さすがに人に弔意を示せない人間はつまはじきにされて生活を脅かされるとかだったら……いやそうだったら怖すぎるからそもそも人の死に弔意を表明することの是非とか逆に考えないで迅速に弔意を表明したいところですよね。できるだけ苦しみがなく生きていきたいですもん、できるかぎり。ねえ、人が死んだら本当に悲しいんですか、みんな? 悲しいは悲しいだろうけどそれってその人の死によって自分の利益が減ることを憂う悲しみじゃないんですか、所詮? それをなんか、身近な人とか好きだった芸能人が死んだら悲しいよねみたいに、ふつう悲しいよねみたいになってるのが気に食わない。私は飼ってたペットだって早く死んでほしかった。病気になっちゃったから。たしかにペットは可愛いけど、病気の苦しみを抱えた生き物が身近に生きてるほうが私は怖かった。(←こんな話、寝たきりの病人が家族にいる人が聞いたら嫌かもしれないけど……。)苦しい生よりは死のほうがよくないですか。自殺をかわいそうみたいに言うのは、あんまりぽんぽん構成員に自殺されると社会が困るから、「自殺=悪」みたい風潮を社会が作り出してるだけじゃないんですか。

 とかなんとか言ってるけど死ぬのは怖い。物心ついたときから今に至るまでずっと怖い。死ぬのが本当に怖すぎるからキリスト教を信じたのに死への恐怖が解決できてない。死んだら魂は神様のもとに帰るとかいうわりに、教会関係者が死んだときにとりあえずお悔やみが申し上げられるのも謎。お悔やみ……ああでも、召されちゃうのはその人にとっていいことですけど、残されたこっちとしてはもっとこの世界の光として働いてもらいたかったですよね正味、って意味のお悔やみかな。召されて悔しい~、みたいな。まだ連れて行かないでほしかった実際~、みたいな。それなら納得かも。それと、キリスト教徒のあいだでも死はなんだかんだ悲しいものとして通ってるのが謎すぎる。キリスト教の教義的には死んだら上がりみたいなもんだから、いいことじゃないんですか? やったー、ゴール!いい試合でした!みたいな感じになるもんじゃないですか。だって全能の愛なる神様のところに行けるなら完全に良いことで、葬式で参列者が言うこととしては「ああやっとこの世の苦しみから解放されて死んで神様のもとにいけるねえ!よかったねえ!いまごろ神様にいっぱい褒められて、今までたいへんだっだけどよく頑張ったって慰めてもらっているでしょうねえ!神様のもとで安らかに過ごしてるんだろうねえ!また天国で会おうねえ!」しかなくない? 涙出る幕なくない? でもやっぱり愛着対象が物質的に消失したら精神は不調を訴えるものなのかな。あー、みんな悲しいんじゃなくて寂しいのかな。寂しいのはわかる。わかります。寂しくて泣くのはわかる。寂しいと泣いちゃうよね。寂しくて泣いてるのかなみんな。弔意って「寂しいよ」ってことなのかも。もしかしたら供養の一形態でもあるのかもしれない。仏教ってぜんぜんわからないけど、『故人を供養してあげること』がかなり重要っぽい感じするから、「あの人はこんな功績を遺してくれた、ありがたかったね、寂しいね」と残されたものたちが口々に唱えることが故人への慰め=供養となる点で重要なのかも。なんかもしかして弔意=功績への感謝・寂しさの表明という理解でいいんではないか? いやまって、そんなことも私は腑に落ちてなかったってこと? なんで? わかるよ。功績への感謝と寂しさの表明。 ああ、そうか、弔意をあえて表明するのがよくわからなかったのかも。でもそうやって慰めあうのが大事だよね、残された者同士で。え、わかる。「功績に感謝する・寂しいと思う」が弔意であるなら、べつに「でも死ねて人生アガリだね、よかったね」がそこに入っても「弔意」が損なわれることはないんじゃないか? 弔意=死なないでほしかった!死んでいやだ!ということではない、んじゃないか? 私の弔意の理解は今これ→「この人の生きている姿がもう見られないのは寂しい、この人が生きているのをもっと見たかった、今まで本当に多くのものを私はこの人から得て感謝だった、この人にとって死が安らぎであるといいが……」。 つまり弔意ってエゴでしかないけどエゴでいいのかもな全然。弔意が残された人々を慰めるのかも。自分が死んだときに寂しかったら怖いから人に弔意を唱えるのかも!!自分が死んだときに人が弔意を唱えて魂に慰めをくれるかもしれないとぼんやり信じられるから。そうやって死への恐怖をちょっとでも削りながらなんとか生きてるのかもしれない、みんな。弔意は呪術のひとつなんじゃないか。生きていくための。だとしたら納得できる。

 話は戻るけど自分の好きなタレントさんが死んじゃったら嫌だろうなあ。可能性がなくもないのが不穏で嫌だ。なんだかんだ自殺ですねやっぱり悲しいのは、ええ、なんだかんだ。自分の好きなタレントが交通事故で死んだら、それは悲しいけど、自殺とは比べものにならないというか。好きっていうのはある程度自分と重ねて見てるわけだから、えっあの人苦しんでたんだ、苦しみながら生きてたんだっていう想像の苦しみがもう、容易には去らないだろう。いや、でも、そうだ。人はみんなどうせ死ぬんだし、自殺する人もいる。現に自殺した人がいっぱいいる。そういう人もいる。自殺しなかった人もいつかは死ぬ。苦しみながら生きる人もいる。

 私がこの世でいちばん怖いものは拷問なんですけど、拷問に比べたら自殺ってマシかも。マシとかないですけどねこういう話に。拷問本当に怖い。拷問嫌だな…いちばん嫌だ。地獄って実質拷問だから、だから死ぬのが怖いんですよね。あとなんか死んだら霊魂だけになってなんかいろんなつらさに苛まれながら永遠に存在しちゃってつらいみたいな死後だったらそれも実質拷問だから、私がいちばん嫌いなものはやっぱり拷問。拷問って本当に怖すぎて逆にR18だとめっちゃ好き。グロすぎるのは無理だけど。なんか防衛機制なのかもしれない。自分が怖がっているものを安全に楽しむことでなんかのバランスを取ってるのかもしれない。戦争も実質拷問ですよね。やっぱ拷問怖いな。世界に拷問が存在することが怖い。今この瞬間にもこの世のどこかで拷問が行われているというのが嫌すぎる。人間も人生も本当に嫌になる。神様もね…。放任すぎると思いますよ。本当に。ノアの箱舟とか余計なことを……人間なんて全部拭い去った方がよかったって、思っちゃうよこんな世の中を見てたら。神様はそうは思ってないらしいけど……私も死んだらわかるのかなー。「人間滅ぼさなかったのは愛だったんですねー」ってなるのかなー。滅ぼしてくれたらよかったのに。何も残さずに。霊魂とかも何も残さずに。神様だけで生きててくれればよかったのに。人間を愛そうとかしないで。