2024年1月31日の日記

 今、『14歳の世渡り術 差別をしよう!』(ホーキング青山、2009)を読んでいます。14歳の世渡り術はとっつきやすくて好きです。差別をしよう!という逆張りタイトルに惹かれて図書館で借りました。

 作者のホーキング青山さんは身体障碍者だがお笑い芸人をやっているという異色の経歴を持っている方で、自分の経験をふんだんに盛り込みながら「差別はいけないことではない」と主張されてました。差別をしよう、と言っても、「他人を見下して攻撃しよう」という趣旨ではないようです。もしそうだったら14歳向けの本としては到底出せないものになってしまうので当然ですが。

 私が読んだ限りでは、「差別――自分と他人を比較し、他人を見下して優越感を覚えること、それは『自分に自信を持ち』、『自分を見つける』ための重要で必要な体験だから、どんどんしていこう。人間、他人と比較しないと自信を持てない。昨今のむやみな平等主義は人々が自信を培う機会を奪っている。その『自信のなさ』こそが、あらゆる社会問題の、諸悪の根源なのだ」という趣旨だと思いました。

 差別の定義が「自分と他人の差を見出す(その結果、自分を知る)」というところなんですね。私は差別というとつい「自分と他人の差を理由に、他人を攻撃すること」まで定義に盛り込んでしまうけど、「自分と他人の差を見出す」くらいなら確かにしてもいいし、するべきだという話もわかるなあと思いました。ただ、他人と比較して優越感を覚えることが、本当に自信につながるのか?私は疑問に思います。私の考えだと、自信は愛されることでつくからです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ……」と聖書も言っていますが、他人を自分よりも劣る存在であると評定するとき、人は、自分自身もその評定から逃れられずに苦しむことにはならないでしょうか。たしかに、他人に低評価をつけた結果、「あの人みたいにはなりたくない」と言って努力し、その結果その人の実力が向するといったメリットは大いにあると思います。でもそれって、ものすごいデメリットを生むような気がします。互いにジャッジしあう社会では心の休まる暇もなく、育つのは自信ではなく、はてなき猜疑心……ということになってしまうんじゃないでしょうか。

 と、思いはしたものの、本は最初から最後までとてもおもしろく読めました。特に、障害者への差別意識(障害者はワガママだ、感謝の心がない、など)というのは、障害者の周囲の人間(障碍者と直接触れ合っている身内や福祉畑の人間)が生み出してしまっているのではないか、という主張(p.56)はとても興味深かったです。

 なんといっても、これだけの文量を書き上げてまとめて出版するというのが本当にすごいです。本を出版している人って本当に尊敬します。感動したので久々にブログを書きました。ぶっちゃけ、「すごく面白い文章だけど、私の想定を超えるというほどでもない……私にも書けなくもない……私にも書けるんじゃない?!」という心の動きがありました……。それって、つまり、この本が主張している「差別による優越感が自信となる」事例、そのものなのではないか?! あぁー、恥ずかしい。「人を裁くな」云々かんぬんごちゃごちゃ考えてても結局、自分で本書の趣旨を体現しちゃってたってこと?! ちょっと違うかもしれないけど、「体は正直」ってこと!? かーっ、ままならねえ。でもそんな自分も愛おしい。