2024年3月12日火曜日 呪術的思考

 呪術的思考(魔術的思考ともいうらしい)に照らして物事を解釈すると心が落ち着いていいなと思いました。その一例として「お悔やみ」があげられます。私は今までお悔やみというものがわからなくてモヤモヤしていました。そして、「お悔やみ」は呪術的思考によるものである……つまり、「おまじない」である、と考えるに至ったのです。「お悔やみ」によって故人を慰霊しているのだ、と。そしてまた、これは呪術的思考とは違うと思うのですが、「お悔やみ」を表明しあうことで人々は連帯感を強め、互いに慰めを得ているのだと思いました。

 また、人はいろんなジンクス(呪術的思考)を持って生きていて、それは到底わかりあえないものなのではないかと思いました。そうであれば、他人の生き方が鼻につくことがあっても、「それはその人なりの生きていく上の呪術的思考だから、私には理解できないし、だからといってその人の呪術的思考が私のそれに比べて劣っているということではない」と考えることができ、それは私が生きていくうえで有用な考え方だと感じました。あなたにはあなたの呪術があり、私には私の呪術がある。もしその呪術が対立してしまったら、そのときに改めて対立すればよくて、互いに没交渉で生きていくぶんにはわざわざ他人の呪術に心かき乱さなくともいいかもな、と思いました。あーでもそう思ったところで乱されるよ~。ちょうど今日心かき乱されたのは無断転載に無頓着な人を見たことです。くー、無断転載はついムカついて断罪してしまう。でも無断転載は法律違反ですから、わざわざ私が怒りによって裁く必要はないのかもな……。なんにせよ、人には人の乳酸菌、人には人の呪術です。言い聞かせていけばなんとか。

 私は、多くの人がそうであるように、他人に自分の何かを指摘されるのが大嫌いなのですが、そういうときに相手に対して激烈な憎しみを抱く代わりに、「それってあなたの呪術ですよね」(ひろゆきが言っている「それってあなたの感想ですよね」の真似)って言えるんじゃないかと思うんです。この考えは今初めて浮かんだものではなく、何年か前(3年以上10年未満)のことですが、私に対して頻繁に、よかれと思って(立場上、というのもあったと思います)何かと私のやり方とか考え方を指摘してくる人がいて、それが私は憎くてたまらなかった、ということがありまして、そのときに悶々と考えていたら、人生って「遊び」なんじゃないか、と思ったことがあったんです。人ってそれぞれが自分の遊びのルールを勝手に設定して勝手に守ったり守れなかったりしながら生きているだけなんじゃないかな、と。その私になんだかんだ指摘をしてくる人も、ただ自分の遊びのルールに従って生きていて、私に対してもそのルールに則って指摘をしてくるけど、それはその人の遊びであって趣味なんだから、必ずしも私がそれを聞く必要もないんじゃないか、と。例えば、「水がもったいないから、水道を使うときに水を流しっぱなしにしないよう気をつけよう」みたいなことを人が他人に言うことはよくあるけど、それすらも言っている側の遊びであって趣味なのだから、必ずしも言われた側が聞き入れなくてはならない道理はないだろう、と思うのです。世の中にはそういう、大体の人が受け入れている正義みたいなものが結構あるけれど、それって絶対的なものではなくて相対的なものなんじゃないかなと、そのときに思ったのでした。だからどんなに社会において正義とされている行為(エコとか反差別とか)であっても、それに賛同していない人たちに対して「あーあーあー、こういう馬鹿がいるから面倒なことになってるんだよねえ!常識的に考えてこんなの、人間社会で生きていくなら当然アグリーな話でしょ?!お前ら馬鹿なの!?知識もなければ向上心もなくて、おまけに人の心もないの!?」みたいな態度じゃなくて、お願いベースで対峙していくべきじゃないか?という気がしました。こんなの理想論なのかなー。やっぱり初手で噛みついて徹底的にkillしあうのが野蛮な人類にはお似合いなのかなー。

 なんで私って相対化するのが好きなんだろう。やっぱり自分を正当化できないのはつらいからか?

 今日は人には言えないようなR18作品を見ていて、うわーこれは社会的に完全にダメなやつだと思いながらも熱中してしまったので、児ポ好きな人もこういう感じなのかなと思いました。私はできればすべての子どもが幸せであってほしいと願っている派の人間なので自分と児ポ好きに連続性があるなどとは露ほども思ったことがなかったのですが、私と児ポ好きは延長線上にいるんだと思いました。私が児ポ好きではないのはたまたまなのだと思います。この感覚は殺人に関してもあって、一時期脳だか神経だかの調子が悪かったころは、自分が人を殺す可能性は全然あるなと感じていて、そこまで状況が悪くないし親戚が悲しむのも嫌だからまだ誰も殺してないだけだという感覚がありました。ので、殺人のニュースを見たときに犯人に同情することがたまにあります。でも最近、死にかけのゴキブリを殺すのにも肝が冷えて血の気が引いたので、こりゃ人間は殺せなさそうだなと思いました。

 社会的にダメだと思いながらもしてしまうことの話って、すると「ダメだと思ってるなら改めなさいよ」ってなっちゃうからあまりできない、ので、他人の「社会的にダメだと思っているがしてしまうこと」ってあんまり見れなくて貴重かも、と思いました。最近流行ってる汚部屋のお片付けの動画とかってそれに近いものがある感じがします。汚部屋に住んでる人って多くは「こんなに部屋が汚いなんて社会的にだめだよな」って思いながら生きてて、でもそれを今片付けているっていう免罪符があるから動画にできるというか。社会的にダメだと思っていることって普通に犯罪だったりすることが多いから人に話して共有とかそうそうできないですよね。でもそういうのこそ興味深いよなあ。

 熱に突き動かされて生きることができるのは素敵なことだと思いました。私もそう生きたいです。何かにハマれるのはいつでもできることではないなという感じがしました。だからこそできそうなときはハマれるだけハマっておけばいいよなと思います。体力を温存したところで火が消えてしまえば燃え続けることはできないのです。

 今日は14時に寝て22時過ぎに起きました。カルピスミカン味がおいしすぎて3日で1本飲んでしまいました……。

 自家発電(本当の発電ではなく、オタク用語の方の自家発電)に少し手ごたえを感じています。自分で書いたものを読んで「そうそう!そういう関係性が読みたかったんだよ~これこれこれ~」と思えるのは嬉しいことだなと思いました。しかも誤字を発見したりちょっと言い回しに違和感があったりしたらいつでもノータイムで即修正できるのもgoodです。でもエロは恥ずかしくて書けないので、エロを書いてくださる方のありがたさが一層分かるようになりました。心から感謝します。尊敬しています。本当にありがとうございます。私はエロを書けたことが……あ、そういえばありました!一回だけ軽めではありますがはっきりとR18といえるであろうエロ小説を書いたことがありました。でもそれって私の脳にあるエロの0.01%……というか、脳にあるエロの原風景(?)を書いているというよりは、書くときは書くとき用のエロをその場でこしらえている感じがします。まあ書くとき用のエロといっても、その語彙だとかシチュエーションは脳にある原風景のエロから持ってきたものなんだろうから、影響はあるっちゃあるんでしょうが、でも、私はエロを書くとき漉して書いているなというような感じがすごくします。もしかしてこれって、妄想するときに使っている脳と、書くときに使う脳が違うからじゃないでしょうか!?(なんかこの話したことあるかもしれない。してたら恥ずかしいな、すっかり忘れちゃってる記憶力のなさが……)