2024年4月14日日曜日 散歩

 1時過ぎに寝て9時に起きました。眠いです。ピクミンのコミュニティデイだったので1万歩を目指して商店街とでかめの公園を巡りました。イベントをたくさんやっていて人混みがすごかったです。普段はそんなに栄えていることがないので嬉しかったです。

 

 朝は納豆卵ごはんを、昼はお店でとんかつを、夜は美味しいパン屋のパンを食べました。おいしかったです。

 

 「予後が悪い」って表現が好きすぎてずっと脳内で「予後が悪い」って繰り返してます。「予後」の語感がよいです。

 

 死にたいのって恥ずかしいことなのかな、まあそういう人もいるか。

 

 希死念慮みたいな短歌(←私はそれが大好きなんですが、)をいっぱい詠んでる方が、「ちょっと自殺ほう助の気があるじゃん。どうする?ほんとに死んだら、と思うよね」って言ってて、私は、自分の言葉をきっかけに誰かが死んでも、それはそれで、いいんじゃないかなと思いました。でもすごく無責任な感想ですよね、人が自分によって死んだとき、それを背負うのは誰かでなくただひとりの自分だもの。実際そうなったときはやっぱり自責の念というか、何かを背負わされる感じがしてしまいそうです。でも、死ぬんだ人は。自殺するんだ、人は。嫌だけど、悲しいけど、ある日ふと人は死ぬんだ。そのきっかけが自分の歌である可能性はつぶせない、から、いいんじゃないかと思いました。自分の言葉を読んでいた人が死ぬ。それは事実としてある。あるものはある。もうあったし、これからもあるんですよね。人って絶対死ぬし、十代とかで死んじゃう人もいっぱいいる。悲しいですよね。誰も彼も存在させられてしまったからには幸せを謳歌してから死んでいけるといいのに。

 

 うわすご、改めて気づいたんですけど、magnet、神調教すぎる、めちゃくちゃ聞き取りやすいですね、歌詞が!うそ、すごい、神調教の曲、大好き!

 

 地雷って非戦闘員の脚を吹っ飛ばしたりするのが目的のマジで恐ろしい兵器だから地雷って言葉を地雷以外の意味で使わないほうがいい、みたいな話を目にしてから、たしかになーと思ってそうしてるんですけど、わりと普通にポロっと使ってしまうので、使うたびに「ああああ」ってなります。

 

 三次元に推しがいると現実が更新されていくのが楽しみになっていいですね。楽しみ~~。

 

 夫の稼ぎと精神が強靭すぎて、大学時代に悩まされた「こんな自分で生きていけるのか」みたいな不安感が消し飛んだ感があります。生きていけるわ。

 

 人って変わっていく生き物だから、十年くらいのスパンで何かに取り組んでいる人の過去の成果物を見ると、最初の頃と現在とでかなりアウトプットの形式が変わっていたりして、それを目の当たりにすると切なさを感じたりするんですけど、変わっていけるのもまたよいことなのかもしれないと頭では思います。でも切ないな、なんでだ。

 

 「推し、燃ゆ」p.9の「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、」の段落、さらっと書かれててかっこいいです。推し、燃ゆ、すごすぎる。さーっと読むだけでもう目頭が熱くなります。生きることのままならなさの描写がすごい。紙の本ってあとどれくらいで終わるのか分かるけど、それって良いところでもあり悪いところでもあると思うんですけど、推し、燃ゆに関してはすごく、よかったです。終わる、もう終わる、終わってしまう、と思いながら読んでいるとなんだか焦って興奮するなあと思いました。推し、燃ゆの終わり方大好きなんですけど、なんか、希望があるのかないのかわからない感じですけど、読んだ私は希望を感じられる、と思いました。

 

 真夏の夜の淫夢が何もわかりません。野獣先輩という人がいて、印象的なセリフが多いゲイアダルトビデオで、インターネットの人たちに莫大な人気を誇っている、ということはわかります。私もパソコン大好きで四六時中パソコンに張り付き続けた青春時代を送っていたけど、観測範囲に真夏の夜の淫夢は含まれていませんでした。大学のときにそれが好きだという友達がいて、あ、現在進行形で流行ってるんだそれって!と驚いたのを憶えています。2024何現在も流行っていて、すごいです。何がそんなにウケたんだろう…やっぱりエロと面白は紙一重だから、ニコ動とかでみんなでエロいもの見ながらやいやいおもしろ大喜利コメントするのが楽しかったのかな。真夏の夜の淫夢ってニコ動で流行ってたイメージなんですけど、もし違っていたらごめんなさい。

 

 自分の脳が作り出してくれる最新作をいつも期待しているのです。自分の脳から捻り出された文章が読みたいし、いろんな夢を見て全部覚えていたいです。