kの日記

人生の感想など

2024年06月02日日曜日体調がちょっと悪い

 雨!肌寒い。頭のよさってなんなんだろうな、ということをうっすら考えていました。私は頭がいいのかどうか気になります、正直。私は学力テストの点数は平均よりもだいぶいいほうだったんですけど、学力だけが頭の良さじゃないって話もあるじゃないですか。えーでも「学力」が「頭の良さ」じゃなーい?とっさの判断ができないとか決断力がないとかの、「地頭」?っていうんですか?そういうのは、「頭の良さ」じゃなくないか?でもきょうび「いい」とか「悪い」とか言ってしまうのがすでに時代にあわないのかもしれませんねえ。発達の凸凹があるだけ。いいとか悪いとかではない。得意とか苦手とかって言ったほうがいいのかも。いいとか悪いって言い方はどうしても価値に言及してしまう雰囲気があって危ない。いいはいい、悪いは悪いになってしまう。得意と苦手であれば、うーん、でもやっぱり苦手っていうのは、悪いみたいな意味になっちゃうか?でも、やっぱり、「いい、悪い」よりは「得意、苦手」と表現した方がこう人間、お互い得意と苦手を補い合って生きていくという人間観でやっていくことの一助になる気も……うーん、でもそれさえも、「得意なことがない人間は他者の足をひっぱるだけだから死んだ方がいい」みたいな帰結に行きついてしまう余地が……まあ余地があるのはしかたないか。なんにでも余地はある。「恵まれない人」を生贄/家畜あつかいする論のことを思い出すなあ。「神様、この世に恵まれない人がいるのはなぜですか?」「それはね、恵まれている人が、その人たちを助けるようにだよ」←これ。あしながおじさんで主人公が「私たちは家畜なんですって!」ってぶち切れてたやつ。このぶち切れを読んで私はすごく衝撃を受けたんですよね。私は恵まれてる側の人間っていう自負があるんですけど、だから「恵まれてない」人たちを助ける債務を避けがたく負っていると思っていて、それが苦痛で、「いや知らんし……っていうかどこまで助ければいいわけ?終わりがないじゃん。そんな心身を削って世のため人のために働きたくないんですけど……自分の十字架……?勘弁してくれよ生れたくて生まれてきたわけでもないのに……」って思ってたんですけど、「恵まれた人たちが恵まれない人たちを助ける」っていう構図は「恵まれない人たち」にとっても屈辱的だし、ただ諸手をあげて「さあ助けてくれ!はやく!なんで助けてくれないんだ!」って思ってるわけじゃないんだっていう、まあそれって当然のことかもしれないんですけど、に気づいて、ああ、ってなった、っていう。いやーでもなんかこうやって書いててもこの債務、引き受けるしかない気がするよ。逃げたり目を逸らしたりしないで債務を引き受けることでしか真に生きられないのではないかという、気がする。できるだけ、忘れないで、できる限りで、やっていくしか。これって「恐れ」か?「恐れ」だとしたら従わなくていいんだが……。えー、なんかすることあるか?世のため人のためにさあ。でもそれって私が幸せであることがいちばんの社会貢献じゃない?私って幸せでさえあればけっこう気のいい女なんですよ。疲れるととたんにとげとげしくなっちゃうけど。だから自分が疲れないよう気を付けて生きていくことが結局は他人を害さずに生きていくために決定的に重要なのでないかと思っていて……。
 礼拝に行って帰ってきた。13時。お昼は教会でうどんを作ってもらって食べた。うまい!!最近では珍しいくらいの強さの雨だ。眠すぎる。寝ようかな。
 オモコロチャンネル、好きすぎて歯止めがきかなくなってきたので、今試験的に摂取を断っています。思ったより全然断てていて自分でもびっくりしている。いまが低ストレス生活だからかもしれません。高ストレス生活だったら我慢できなかったかも。かつて、どうしても自慰してしまうとか、どうしても暴食してしまうとか、どうしても夜更かししてしまうとかがあったので、自分は一回何かに依存したらやめるのにかなりの意志と決意が必要なたちだと思っていたのですが、今回はそうでもなかった。さくっとやめられた。よかったです。いい変化だ。精神が健康だと何かと良いですねえ。生きやすい。最近本当に精神が健康だなと思います。何かというと、いつのまにか理想の母親を求める気持ちがほとんどなくなっていたのです。大学生の頃、精神の調子が悪かったときは、本当に「お母さん的存在=私を慰めてくれて、すべてを受け入れてくれて、愛してくれる存在」にいて欲しくて、でもそんな存在がいるはずもないので(←私の実の母はとてもいい人間で尊敬しているしとても好きだけど、私の願い求めた「理想の母」はとうてい人間が達成できるようなレベルのものではないため)、その願望をこじらせて教会の牧師夫人にやたらめったら期待をかけたうえで勝手に失望かましたりしてたんですけど(←その節は牧師夫人に本当に申し訳ないことをしたと思っている。牧師夫人っていうのは本当に酷なお仕事だと思う。精神の調子を崩した悩める子羊たちが、好き放題寄ってくるのだから……)、なんか、もうすぐ30歳になる今、やっと、「私を絶対に受け入れてくれて、絶対に見捨てず裏切らずすべてをゆるし愛してくれる存在」を希求する気持ちが、わかなくなった。そういう思いに心が囚われて乱されることが、なくなった。精神がすごく安定した。ありがたいことです。これくらい精神が安定していれば生きていくのもやぶさかではないわ。
 理想のお母さんを求める気持ちって私だけでなく広く人の心に存在していると思っていて、それが聖母マリア様信仰なんだろうなと思います。私はカトリック信徒ではなくプロテスタントなのでマリア様信仰はないんですが……(←特に私が洗礼を受けた教会はかなり厳格なプロテスタントだったのでマリアを神聖視する素振りが一切なかった。マリアをただ素晴らしい信仰を示した人として位置付けており、聖人としても扱っていない。プロテスタントは「聖人」とかない(←わかんない、プロテスタントも分裂しまくってありとあらゆる宗派があるので、なかにはプロテスタントでありながら「聖人」制度を信奉している派閥もあるかもしれませんが、私は知らない…))。カトリックのことは知らないんですけど、インターネットで調べた限り、カトリックの人って聖母マリア様に祈って「この祈りをどうか取り次いでください」みたいなことを言ったりするらしいんですけど、プロテスタント教育を受けた私の目には、「え、イエス様の名によって直接祈ればよくない?聖書もそう言ってるし……わざわざマリア様を経由する必要なくない?わざわざマリア様を経由し直接は祈らないことで奥ゆかしさを表現しているのか…?」と謎めいて映る。まあカトリックの人たちも文化的に慣習としてそう祈ってるだけだから別に何も考えずみんなにあわせてそう祈ってるだけな気もしますが。別にね。祈ってれば、いいですよね。マリア様を経由しようがしまいがね。こんな少ねえクリスチャン同士で喧嘩してる場合じゃないやね。でも喧嘩って往々にしてそういうこまけえ違いから発生するんですよね。近いからこそ違いがわかってさ。遠すぎる相手とは喧嘩にならないですもん。いや、そうでもないか?喧嘩、にはならないとしても、遠すぎる相手とは戦争に、なるか?喧嘩を超えて殲滅に、さ。
 おいアメリカでは誰もXなんて言ってないって本当なのかよ。じゃあ私もTwitterって言うぜ。どう考えてもXよりTwitterのほうが検索性能が高いからな……。
 昼寝!!1時間寝た!庭のタイルを少しだけブラシでこすりました。みるみる汚れが落ちる。雨が降ってきたのでやめました。この雨で落ちた汚れが流れ去ることを願う。
 Xで流れてきた「就職しないで生きるには」、読みたいなと思って検索したら中古で5000円した。プレミアがついとる。国会図書館にはデジタルデータで所蔵されてるのかー。千代田区在住だったら行くんだけどなー。国会図書館って行ったことないんですけど行けば所蔵されてる書物が読める感じなんですかね?ちょっとこれだけのために東京に行くのは億劫だ……。
 やった!少女歌劇レヴュースターライトを夫と一緒に劇場に見に行けることに!急いで晩御飯をたべています。ナッシュのタラの甘辛なんとかみたいなやつ。うますぎる。リピ確。
 スタァライト観た!すごく面白かった。ずっと観てたい感じ。かれんが特に丁寧に作画されてる感じがした。主人公であることを作画で示してるのかなと思った。