2024年4月8日月曜日 超元気。庭掃除

 昨日は3時過ぎに寝て10時ごろに起きました。配達が来たからです。夫がふるさと納税で頼んだ米3kgでした。配達が来た後に二度寝すればよかったのですが、スマホをいじってしまったので眠れませんでした。

 

 今は小説を読んでいます。今まで興味のなかった分野の小説を読んでいますが、自分の書いている妄想を出力する際の参考になりそうでありがたいです。型をなぞって出力したいと思います。

 

 推しの言っていることに同意できると嬉しいですが、反対に、推しの言っていることに同意できないと悲しいです。推しに限らずとも他人の言うことに同意できないと悲しくはありますがそれが推しだとなおさらです。しかしこの悲しみには道理がないとも思います。同意することが常に正しいわけでもないと、私も頭ではわかりますし、社会もおそらくそうだと言ってくれるでしょう。しかしこの悲しみが私を現に今存在させるまでに「勝利」を選び取ってきた生存本能のなせる業だとすれば、私には理解できないものの、たしかに有用なのでしょう。

 そして話は変わりますが、推しの言っていることに同意できると嬉しいけれども、それはそれでまた、自分で自分が気持ち悪く感じてしまうのです。信奉って居心地が悪い。おさまりが悪い。きまりが悪い。これもまた生存本能のなせる業なのでしょうか。今日も生活の中で推しの言葉を私なりに理解・解釈・受容する一幕があったんですけど、「う、うへえ」という感じがしました。これが二次元の推しならそう気持ち悪く思わなかったりするんでしょうか?実在性が希釈されて。あーこの書き方だときっと自分で読み返した時に「その推しの言葉ってなんだっけ?!」ってなってしまいますね。ちょっと書くの恥ずかしいけどその推しの言葉というのは「今まで受け入れられなかったものも、カテゴリを変えると受け入れられる」です。そして私にとってその「受け入れられなかったもの」とは「興味のない分野の小説」で、カテゴリを「自分を喜ばせるためのもの」から「自分が出力する際の参考にするもの」に変えたらしっくりきたという話です。あー、推しに関することを書くのはまだ恥ずかしいです。この羞恥心はいったいなんなんでしょう。刺されたらフェイタリティだから隠したいんでしょうか。この羞恥心が生存の何に役に立つというんでしょうか。

 

 最近ニュースオモコロウォッチを聴いていますがとても面白いです。

omocoro.jp

 第40回では「受け狙いでゲームクリエイターさんに不利益になるようなレビューをつけてしまう消費者たち」に対する意見が交わされていたのですが、その中で出てきた「お前だって登ったじゃないか、この梯子を」という文言に心揺さぶられたので文字起こしをしました。

 

恐山「なんでみんなこんな承認を欲しがるような世界になってしまったのか」

永田「それを俺たちが言っちゃダメなんだよなあ。そこもやっぱあるじゃん、そこも。元祖アルファツイッタラーの恐山が、ダ・ヴィンチ・恐山がそれを言っちゃあ、やっぱダメなのよ」

恐山「そうなんですよねぇ」

原宿「始めた人間だから、このゲームを」

恐山「梯子を登ってしまった奴が屋根の上から何を言ってももう、きかない どうしようもない」

永田「『お前だって登ったじゃないか、この梯子を』」

 

 「お前だって登ったじゃないか、この梯子を」!

 「お前だって登ったじゃないか、この梯子を」……。

 「お前だって登ったじゃないか、この梯子を」!!

 あーでも、そうだな、そうですね、うわー。すごい。すごいです。梯子を登るって表現するの、すごいな……。でも、そう、梯子を登って、他の人が到達できないようなところまで行ってしまった人が、梯子を今まさに登っている人に物申していたら、それはたしかに、「お前だって登ったじゃないか、この梯子を」ってなるわ、なる、けど、だって、あまりにその登り方が愚かであれば、物申したくもなるのであって……。あー。すごいですねえ。(思考の放棄) でも話は違うけどどうしてそんなに高いところまで登っていけたんでしょう。すごいなあ。

 

 今日は超元気だったので庭を掃除しました。前の住人が残したサビサビの園芸用道具などを処分するために袋にまとめたり、放置されすぎて袋が破れて中身のはみだした園芸用土を、ゴミ袋にとりあえず入れて避難させたりしました。使っていない園芸用の鉢がいっぱいあります。前の住人というのは私の祖父なのですがやはり加齢にともない「物を捨てる」というのが億劫になるんでしょうか、燃えないゴミなどの捨てづらいものが家の中にもいくつかまとめて残されていたので、加齢というのは深刻なものなのだなと思いました。

 

 音MADに感動したので私は文字MADの気持ちで小説を作りたいなと思います。