2024年4月10日水曜日 庭掃除2

 3時に寝て12時に起きました。ふと目が覚めてアレクサに時刻を尋ねたら11:56だったので慌ててポケモンスリープを起動し、カビゴンに朝ごはんをあげました。

 納豆たまごの素うどんを食べて歯磨きをして着替えをして母と庭の掃除を少ししました。いらないものを捨てるために分別しました。物を捨てるというのは大変です。不用品回収サービスが成立するのも納得です。母の知り合いの方が夕方に家に来てうちでは使わないものたちを引き取ってくれました。本当に助かります。夜はnushのサバの揚げたものを食べました。おいしかったです。少し食べたりなかったので牛乳にザバスを入れて飲みました。甘くて満足感があります。アレクサに音楽を流してもらいながら図書館で借りた堀江貴文さんの本とあたしンちを読みました。

 

 私は哲学に傾倒する人の気持ちがわからないんですけど、「哲学に傾倒する若い男性」というのを私はすごく好きになりがちなので、そういう男性たちがなぜ哲学に傾倒するのかわかりたいなーと思ってたんですけど、哲学に傾倒する人って人生とか生活がわからなくて、そのなかで哲学は比較的「わかる」から、それで哲学に傾倒するのかなと思いました。哲学に傾倒している人たちって、人生とか生活に対して興味が薄そうというか、人生とか生活を哲学よりも大切じゃないものと思ってそうな感じがある(←私の偏見です。)けど、そういう人たちも、本当は、人生とか生活をわかりたい気持ちがあったんじゃないかなと思いました(←偏見の重ね掛けです。)。でも、ここでやっぱり、好きな男性たちと自分を同一視したいのか分からないけど、「私も哲学はさっぱりわからないけど倫理は好きです。倫理って哲学に含まれませんか!?」と騒ぎたくなります。私も、倫理にはまる気持ちならわかります!それって私も、人生とか生活がわからないからじゃないでしょうか!?それでね、私は人生とか生活をわかりたいです。人生とか生活を、わかりたいんです! ああ、だからこの段落で書いてることって結局「哲学に傾倒する若い男性たち」を自分と同一視したいがために編み出した論法であって、「哲学に傾倒する若い男性たち」がなぜ哲学に傾倒するのかの可能性を真剣に検討したとは言えないのかもしれないです。でも、いや、待て、仮にこれが憧れの対象を自分と同一視したいがために編み出した論法だったとして、そういう編み出し方が真剣じゃないって、どうして言えるんです?真剣に編み出したかもしれない。いや、待て、真剣か真剣じゃないかが考え方になんの影響を与えるっていうんですか?「※この考えはあこがれの対象と自分を同一視(?)したいがために編み出されたものであって、真剣に考えたものとはいえない」という注釈がある考えにつく、そのことが一体どういう意味を持つっていうんだ?いや、だから、そうか、重点が違えば、これで解決なんですね。今私が考えている、「哲学に傾倒する若い男性たちが哲学に傾倒する理由は「生活とか人生がわからなくて、哲学はそのなかでも比較的わかるから」である。」という説は、当たっているかもしれないし、とんだ見当違いな考えかもしれない、でも、実は私にとってはそれが当たっていようがいまいが関係なくて、私はそういうやり口でその、私の好きな「哲学に傾倒する若い男性たち」と自分を同一視することで、自分を満足させているのであって、今回その試みは成功しました、私は満足です、これで終わり、そういうことなのかもしれません。私は議論がしたいのでも、何か可能性を提示したいのでもなく、私を憧れの対象と同一視したいだけで、それをこうやって記すのは、それを社会に晒すことで追認してほしいだけなのかもしれません。

 まあ私の同一視云々は置いておいて、哲学に傾倒するというのは活字……というか、言葉?に傾倒するということなんじゃないかというのもまた、思いました。人生とか生活とかよくわからないけど、言葉ならわかる。言葉ならわかると思った、いい言葉がいっぱいあった、定義があり、推定があり、反論があり、結論があった。それはある種の人々にとって人生や生活なんかよりもずっと「わかる」ものだったんじゃないかな。言葉で知りたい。言葉で把握したい。世界から発された言葉を脳に通していたい。言葉はわかる。言葉を分かっていたい。言葉でわかっていたい。その中でもよかった言葉は脳にしまっておいたり書き留めておいたり、どこかに書いて人にも見てほしい。言葉を通してつながっていたい。そういうふうに、言葉が好きなんじゃないかな。私はそうです。好きだ。好きです。言葉に重点を置いている若い男性が私は好きなのかもしれないです。それってシンパシーを感じるから好きなんでしょうか、それとも好きだからシンパシーを感じる?さすがに「シンパシーを感じるから好き」な気がします。言葉に重点を置いている女性も好きだけど生殖への欲求を刺激されないせいか馬鹿はまりしたことはない気がします。ああでも本の作者だったら女性作家さんのほうが好きかもと思っていた時期はありました(今はそうでもありません)。だけど、もし生殖への欲求が刺激出されいるせいだとして、言葉に重点を置いている人って私と似たような神経系を持っている可能性が高いんだから、そこと生殖しても遺伝子の差異が少なくてよくないんじゃないでしょうか?私みたいなのはむしろボディビルダーみたいに身体で世界とつながることを選択するような人たちと生殖したほうがお互いの遺伝子が遠くていいんじゃないでしょうか……。生殖を直接の目的としなくても、相手が自分にシンパシーを感じてくれれば保護してくれる可能性が高まるので、それで惹かれるんでしょうか。どうなんだろう。

 

 生き続けていると、かつて許せなかったものがどうでもよくなることがあって驚きます。back numberのボーカルの方が不倫したときすごく許せなくてback numberをしばらく聴けなかったんですが、不倫する気持ちってマジでわかるなと思ってからは本当にどうでもよくなって、back numberも聴けるようになりました。いつか女子高生コンクリート詰め殺人事件も私の中でどうでもよくなるんでしょうか。さすがにそれがどうでもよくなるには人生は短すぎるか。あるいは、私も仲間と人を遊び半分に惨殺して隠蔽までする気持ちがマジでわかれば、どうでもよくなるのかもしれないけど……今からその心境の変化が訪れるような人生イベントがあるとは思えませんね。今までもなかったならこれからもないだろうと考えるのは、これは楽観でしょうか?

 

 クリエイトってすごくいいですよね、まだこの世の中になかった素晴らしいものがでてきてそれに出会えるのって人生を肯定できるいい切っ掛けになるというか。音楽でそれを感じることがよくあります。こんなにいい音楽が、メロディが、歌詞が今まで世界が存在しなかったんだ!っていう。小説でも感じます。こんなにいいものに与れた私は幸せ者だなーって。

 

 推しが発した言葉を自分の中で解釈するたびに癪な気持ちになります。推しが発した言葉を私が解釈したところでほめてもらえるどころかきっと推しは「うへえ」と思うことでしょう(実際に推しが私の解釈を目にすることはないとしても)。それは私の自他境界があいまいで推しと自分を同一視しているからでしょうか。私が私のその行為を「うへえ」と思っているだけなのでしょうか。わかりません。なんてことを書いていたら推しのどんな発言をどう解釈したのかを忘れてしましました。おいそれをこそ書こうとしていたのになんだよ。短期記憶が弱すぎか。

 

 Xでいろんな話題が流れてくるのを見るとつい意見表明したくなります。自虐的な言い方になってしまいますが人生や生活に満足していないせいかなと思います。人生や生活に満足していな分を言論で埋めたい、言論を通してネット上に存在感を持ちたいんだと思います。人生や生活に満足したい。言論を通してネット上に存在感を持つことで自分が救われるとは思えないからです。ささやかで愛おしく尊い人生や生活のこまごまとした機微に心躍らせ身の回りの人を大切にし何者にもならずそれでも日々の仕事に誠実に取り組み満足して暮らしていきたい(嘘、本当は何者かになりたい)です。

 

 つい意見表明したくなったこと→整形の是非。整形は、その人が綺麗になって嬉しいならよかったねって思うし、整形して綺麗な人を見たら綺麗だなって思います。でも痛そうだしリスクもあるから、整形しなくて済めばそのほうがいいんじゃないかなと思います。だからルッキズムがなくなったらいいなって思うけど、ルッキズムって人間のデフォルトっぽいので、そうもいかないのかなと思います。ああ、でも、デフォルトだとしても学習を通して変更していけるかもしれませんね。そうなるといいですね。でも現状ではやはり顔のいいほうが何かと自分の思い通りにいく場面は多いので……でもなんだろう、自分の思い通りにいくことが必ずしもいいとは限らないのか??あれですかね、でも、そうだな、顔が生まれつきいい人間だけが享受している特権がある、という感じなんですかね、認識として。それを整形することで得られるならそのほうがいい、と。いやー、でも本当に実感として顔がいいほうが人生は楽だと思います。まあでも顔が良くても神経系がおかしくなれば人は病むし死ぬけれども。うーんでもどうでしょう、知らないけど、顔がいい人間は顔がいいなりのフィードバックを社会から受けているけどそのフィードバックが神経系とか報酬系にとっていいものであるという保証はどこにもない、といえるかもしれません。もしかしたら褒められすぎると狂うかもしれないじゃないですか、大事な何かが。いやそんなのは顔が醜いと罵られたときに脳などが受けるダメージに比べてしまえば、屁のようなものなのかもしれませんが。いやーいろいろ考えているけれど結局確かなことは何もわかりませんね、生理学的なことは。まあでもいいのか、整形する人もいれば、それをくさす人もいる。それでいいんですよね。だってそうなんだもん。

 

 インプットの先にアウトプットを設定しておくとインプットが底なし沼にならなくていいなと思いました。インプットが底なし沼になると貪りになって脳の喜びが低減していき、時間ばかりを食い、生活全般への悪影響が生ずるけれども、インプットが頭打ちになってきたところでアウトプットを挟むと、脳が活性化していい気分になるし、インプットの方式が変わるのもまたよいです。アウトプットのためのインプットという楽しみ方ができます。

 

 他人を大切にしている人ってエモいなと思いました。でも表面的に見えるものでその人が他人を大切にしているかどうかってかなり分からないなと思いました。寂しがりで他人によく絡みに行く人がどんどん絡みスキルを上げていたとして、その人の「他人を大切にしている度合い」が絡みスキルに比例するわけでもないと思うし……あー、言っててわからなくなりました。よくわかりません。また、他人につんけんするのが芸である人のつんけん度合いについても同様で……。いや待て他人を大切にするってなんだ。自分で言ってて全然わかんねえ。他人を必要としているのと他人を大切にしているのは違うんでしょうか。私の中では違う。他人を大切にすること、それはたとえば、他人の自主性を認め、尊重する、とか、なのか?わからない。でもそう言えもすると思います。あー全然わからない。

 

 恋するフォーチュンクッキーに「あなたは何も悪くないよ」という歌詞がないことに驚きました。ただしくは「未来はそんな悪くないよ」でした。全肯定ソングじゃなかったのか。

 

 嘘を本当だと思い込んでいてそれをあとから「嘘だよ」と知らされる目に遭いたくないという恐怖心が強いのですが、ぜひ克服して、嘘を本当だと思い込んだことそれ自体を面白く感じられるようになりたいです。

 

 Xに流れてくる話題に乗っかりたい、意見表明したいよパート2。「いいだろ!インドに自分探しに行ったって!」です。なんか「インドで自分が見つかったら怖い」みたいな投稿が先日Xでバズってまして、私もその投稿のその表現はけっこう好きだし、「たしかに~w」と思うんですけど、も~、「インドで自分が見つかるわけない」という勢力の勢いが強すぎて、反発心を抱きました。いいじゃん、インドに自分探しに行ったって!いいじゃん、インドで自分が見つかったって!いいじゃん!なんだよ!バカにしやがって!と憤るあたり私の自認は「インドに自分探しに行く派の人間」なんでしょうか、知りませんでしたが。いや、ね、あれですよね、まず、インドに自分探しに行くっていうブームがあったみたいなんですよね、それを私は知らないんです。あったような気がするけどきちんと目にしたことはなかった。で、たぶんそのインド自分探しブームが、たぶん、かなり鼻につく感じだったんでしょうね。だから「インドで自分が見つかるわけない」っていうのは、そのインド自分探しブームに対するカウンターパンチなんだけど、私はそのインド自分探しブームを知らないから、「いやインドに自分探ししに行っただけでこんな言われることある!?」ってなっちゃってるんですよね。いやでも、擁護したいですよ私はインド自分探しを。きっと行ったらいろいろと自分の想定と違うことがあると思うんですよね。思い込んでいた印象と現地の印象の違いを知るとか、できるじゃないですか、実際に行けば。それは本当に行かないとわからないことだし、旅行ってそういうところに意味があると思うんです。まあそれを「自分探し」という大層な名前で呼ぶところが人々を刺激するのかもしれないですね。なんで「自分探し」って鼻につくんでしょう、「インドまで自分を探しに行く俺、かたや自分を探しもしないで日々を生きる愚かなお前らw」というニュアンスを感じてしまうからでしょうか。

 

 推しは可愛いので何かにつけて推しの言葉を好意的に解釈をしてしまうのですが、今日は推しがまた人生をくさすようなことを言っていたので、「もっと柔らかい言い方だってできるのに、わざわざそうやって露悪的な言い方を選ぶ、そこがまた推しの可愛いところなんだよな」と限界オタクの思考をしました。

 

 x でGattomoさんの「ライブハウスで誰かの真似はしなくていいよ(中略)自由に楽しめれば上出来。好き勝手に表現したいね」というポストを読んで金原ひとみさんの「なんか面白いもの書けちゃった。そんなノリで送ってください」(すばる文学賞の選考委員コメントとして:第49回 すばる文学賞 | 集英社の月刊文芸誌「すばる」)みたいだなと思いました。

 

 今日は推しが完全に解釈一致な言動をしていたので「おっしゃー!!解釈jがあたったぞー!!」と思ったのですが、そんな自分が気持ち悪いなと思ってしまったので喜びと悲しみの渦に呑まれてしまいました。いまでもそのことを思うと複雑で息ができないような心地になります。

 

 米津玄師の「Neighbourhood」が良くて、宝だ、と思いました。人生にはこのような出会っていない宝がまだまだあるんだ、という気持ちになりました。